生き物と暮らす
オレは自分の母親のことを「クソ婆」と記す。
不快に思う人もいるだろうが、オレにとってはこれは正しい表記だ。
ある男性が結婚し、子供が生まれてから、オレに言った言葉がある。
「親は最初から親なのではなく、子供と一緒に親になっていくのだ」
子供を儲けただけでは生物学上の「親」になっただけに過ぎない。
子供の成長とともに「親」という存在になっていく。親として成長していかねば、本当の「親」にはなれない。
そして、世の中には決して「親」にはなれない人種がいる。
子供を自分の枷としか見られない者もそうだが、子供を己の「作品」としか考えられない者も、本当の「親」とは言えないだろう。
子供は親の鏡でも親の所有物でも親の奴隷でも下僕でも、親の八つ当たりの対象でも、ましてや憂さ晴らしの捌け口ではない。
親の介護要員や親の生活費を稼ぐ道具でもない。
先日、クソ婆がオレに言った。
「私の友達に『飼い猫がちっとも慣れてくれないのよ』と言ったら、『追い出しちゃえば?』と言われた」
なるほど、類は友を呼ぶのだ。
クソ婆の言葉だけ読むと、友達が薄情だと言っているだけのようだが、実は違う。
クソ婆本人もそう思っているのだ。
これはオレの邪推ではない。
オレが今の猫たち、母猫と子猫2匹(既に2歳なので子猫とは言い難いが)を飼い始めてから、1年と、ええと、8か月になる。
2014年の8月に野良猫を保護した方がオレの自宅に連れてきてくれたから、あれ?1年と9か月と半くらいかな?
当時から、彼らは懐く様子を見せなかった。
うちに来てから2か月くらいの間、母猫は全く姿を見せず、狭いマンションの片隅で死んでいるのではないかと心配になったほどだ。
母親が大好きな子猫たちは、とにかく母猫べったりで、人に懐こうとする気配もなかった。
だからだろう、クソ婆は言ったのだ。
「母猫を追い出そう」
母猫さえいなくなれば、子猫たちが自分に懐くと考えたのだろう。
冗談ではない。
オレが彼らを引き取ったのは、3匹とも引き取るという人が現れなかったからだ。
元々、3匹を保護した人は、子猫2匹を里親に預け、母猫は避妊手術の傷が癒えたら野良猫として放すつもりだった。
子猫思いの母猫は、一生子供を産めない身体となり、その後死ぬまでの数年間を地域猫として孤独に過ごすことになっていたのだ。
実際に、子猫を1匹ずつならば引き取るという人が出ていた。
しかし、別々のケージに閉じ込められたままでも、子猫たちは母親にべったりだったという。
ちょうど、当時飼っていた猫を亡くしたばかりのオレは、彼らを引き取る決心をした。
オレの年齢では、彼らの一生を看取るので精一杯だろう。
親子猫の生涯を背負うつもりで、オレは引き取った。
子供から引き離される母親、母親から引き離される子供たち。
オレは彼らを守りたいと思った。守ると決意した。
もちろん、彼らに懐いてもらいたいとは思う。
思ってはいるが、何よりも彼らが安心して暮らせる環境をつくる事、そういう場を提供することがオレの役目なのだ。
生き物を飼うということは、そういうことだ。
生き物と暮らすということは、そういうことだ。
今度、ディズニー映画「ファインディング ニモ」の続編として「ファインディング ドリー」が公開されるという。
オレは苦々しく感じている。
「ファインディング ニモ」は、オレは映画館で見た。
良い作品だと思った。好きな作品でもある。
しかし、あの映画の大ヒットの後、熱帯魚である「カクレクマノミ」の価格が高騰し、ひどい漁の仕方がなされるようになり、乱獲されたそうだ。
仲買人から毒薬を渡された漁師がカクレクマノミが住むサンゴ礁に毒を撒き、弱って動けなくなったカクレクマノミを捕まえまくったのだ。
目先の金に目がくらんだ現地の漁師が悪いという見方もあるだろう。
しかし、毒の撒かれた海中で素潜りで魚を捕まえていた彼らもまた毒に犯されたのだ。
弱ったカクレクマノミたちは、運ばれる途中で死に、生き残った物は一時的に元気になる処置を施されて売られ、不慣れな飼い主たちの許で死んでいったそうだ。
金を儲けたのは現地の漁師に毒薬を渡して使い方を教えた仲買人と業者たちだ。
同じディズニー映画「101」では、ダルメシアンの子犬たちが標的となった。
ダルメシアンは本来大型の猟犬である。
子供のころからきちんと躾ける必要がある。
あの映画に使われた犬たちは、すべてトレーナーに訓練されていたはずだ。
某国では、あの映画のヒット後、ダルメシアンの子犬たちが大量に買われ、そして、成犬になってから捨てられたという。
手に負えなくなったから、と。
生き物と暮らすことは、相手の命に責任を持つということだとオレは思う。
相手の命とは、肉体的なものだけではなく、固体としての意思や心をも示すとオレは考えている。
それができないのであれば、共に暮らすことを選ぶべきではない。
ペットのことだけではない。
ヒト相手でも同じことだ。
相手を対等と考え、相手を尊重し、思い遣りを持って暮らす。それが「生活を共にする」ということだとオレは考える。
子供相手だけではない、老人相手でも同じことだ。介護が必要なヒトでも同じことだ。
それができないならば、独りで生きろ。相手を施設に入れろ。
家族など作るな。人との付き合いは、仕事上の付き合い、近所付き合いだけにしろ。
オレは、共に暮らす猫たちを「ペット」だなどと考えていない。
彼らは家族だ。
家族になろうとオレは考え、家族になるために考え、家族になるために行動している。
共に暮らせば家族になれるわけではない。
家族になるには、互いに歩み寄る努力が必要だ。
家族は一朝一夕になれるものではないのである。
親が「親」になるために成長が必要なように、「家族」もまた、努力して作り上げるものだとオレは考えている。
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